大きく、そして華麗に鶴が羽ばたいた
2010.05.10 Monday
(セ・リーグ、阪神4−3広島、7回戦、阪神5勝2敗、9日、甲子園)悔いは残さない。
1−0の四回。安打と2つの四球で二死満塁のピンチ。
8番・石原にカウント1−3となったところで、
鶴が城島のサインに首を振った。
魂のシュートで遊ゴロに抑えると、
背番号「46」は悠然とベンチに向かった。
「(サインに首を)一回振っちゃいました。1イニング、
1イニング区切って、長いイニングを考えず投げた結果だと思います」
5年目の右腕が、今季初先発で6回4安打2失点(自責0)の好投。
五回に2失策が絡んで同点とされ、初勝利はならなかったが、
満足感があふれていた。試合前日、中学時代に所属した
「忠岡ボーイズ」の1学年後輩でこの日投げ合った広島・前田健から
「あした投げるんですよね」と探りのメールがきたが「企業秘密」
とピシャリ。マウンドでも先輩の意地を見せつけた。
◇ ◇
震える足を支えてくれたのは、マンモス球場の大声援だった。
「衝撃的でした。歓声にも助けてもらいました」。
2年前の雪辱を誓って幾多のケガを乗り越え、
死に物狂いでつかんだ聖地甲子園での初登板。
先発の鶴が6回2失点の好投で、チームを勝利に導いた。
「とにかく思い切って投げようと。なんとか
乗り切ることができました」。前田健との先輩後輩対決は、
序盤から鶴が優位に立った。初回を3者凡退に斬ると、
以降は毎回走者を置きながらも粘りの投球。
五回に失策が重なって2点を失ったが
、自責点はゼロで先発の役割を十分に果たした。
防御率「無限大」。鶴のプロ野球人生は、
どん底からのスタートだった。08年6月15日。
ロッテ戦での初先発は初回に連打を浴びて、
1死も取れずに6失点で降板した。
「1アウト取ることがスタートだった。
あの試合があったから、今の自分があります」。
登板3日後の夜だった。バレーボール選手だった父・徹朗さんから
電話があった。
「お前の持ち味は何だ‐。ケガを恐れて小さくまとまるな。
オレはケガで泣いた選手だけど、一生懸命やってダメなら、
それでもいいじゃないか」
大阪・忠岡ボーイズに所属した中学時代。2年春の『富田林大会』で、9者連続三振の快挙を成し遂げた。だが、このあとすぐに右ヒジを痛め、高校やプロ入り後も肩に腰…幾多の故障に泣いた。自然とフォームも
小さくなっていたが、ケガで現役を引退した父の一言が胸に染みた。
腕を強く振り、打者へ真っ向勝負を挑む投球は、このときから始まった。
野球との出合いは5歳だった。当時はJリーグ人気が高く、
鶴もサッカー選手にあこがれた。だが、兄・正樹さんが
「貝塚スポーツ少年団」に入るため、母と3人で練習を見学したのが
始まりだった。「初めて見た野球が楽しくて仕方なかった」。
監督にも勧められて入団を決意した。『よびぐん 4』。
手書きの背番号が付いたユニホームが、鶴の原点でもある。
プロ初勝利こそ逃したが、693日ぶりの先発登板は、
無限に秘める可能性を予感させた。
「何より勝利に貢献できてよかったです。
またチャンスをもらえたら、中継ぎでもどこでも投げます」
と鶴。苦しみ抜いた分だけ、笑顔は光り輝いていた。
それから2年。不調の安藤に代わって、
4月27日に1軍登録されると、2度の中継ぎ登板で好投。
5日の試合後、この日の先発を言い渡された。
真弓監督は「見事なピッチングをしてくれた。
これからも先発の中に入ってくると思う」と合格点を与えた。
「1アウト取れたことが進歩。そこからのスタートです」。
無限大からスタートした通算防御率は6・00になった。
大きな自信を得た23歳。若き躍動を何度でも虎ファンに見せつける。
1−0の四回。安打と2つの四球で二死満塁のピンチ。
8番・石原にカウント1−3となったところで、
鶴が城島のサインに首を振った。
魂のシュートで遊ゴロに抑えると、
背番号「46」は悠然とベンチに向かった。
「(サインに首を)一回振っちゃいました。1イニング、
1イニング区切って、長いイニングを考えず投げた結果だと思います」
5年目の右腕が、今季初先発で6回4安打2失点(自責0)の好投。
五回に2失策が絡んで同点とされ、初勝利はならなかったが、
満足感があふれていた。試合前日、中学時代に所属した
「忠岡ボーイズ」の1学年後輩でこの日投げ合った広島・前田健から
「あした投げるんですよね」と探りのメールがきたが「企業秘密」
とピシャリ。マウンドでも先輩の意地を見せつけた。
◇ ◇
震える足を支えてくれたのは、マンモス球場の大声援だった。
「衝撃的でした。歓声にも助けてもらいました」。
2年前の雪辱を誓って幾多のケガを乗り越え、
死に物狂いでつかんだ聖地甲子園での初登板。
先発の鶴が6回2失点の好投で、チームを勝利に導いた。
「とにかく思い切って投げようと。なんとか
乗り切ることができました」。前田健との先輩後輩対決は、
序盤から鶴が優位に立った。初回を3者凡退に斬ると、
以降は毎回走者を置きながらも粘りの投球。
五回に失策が重なって2点を失ったが
、自責点はゼロで先発の役割を十分に果たした。
防御率「無限大」。鶴のプロ野球人生は、
どん底からのスタートだった。08年6月15日。
ロッテ戦での初先発は初回に連打を浴びて、
1死も取れずに6失点で降板した。
「1アウト取ることがスタートだった。
あの試合があったから、今の自分があります」。
登板3日後の夜だった。バレーボール選手だった父・徹朗さんから
電話があった。
「お前の持ち味は何だ‐。ケガを恐れて小さくまとまるな。
オレはケガで泣いた選手だけど、一生懸命やってダメなら、
それでもいいじゃないか」
大阪・忠岡ボーイズに所属した中学時代。2年春の『富田林大会』で、9者連続三振の快挙を成し遂げた。だが、このあとすぐに右ヒジを痛め、高校やプロ入り後も肩に腰…幾多の故障に泣いた。自然とフォームも
小さくなっていたが、ケガで現役を引退した父の一言が胸に染みた。
腕を強く振り、打者へ真っ向勝負を挑む投球は、このときから始まった。
野球との出合いは5歳だった。当時はJリーグ人気が高く、
鶴もサッカー選手にあこがれた。だが、兄・正樹さんが
「貝塚スポーツ少年団」に入るため、母と3人で練習を見学したのが
始まりだった。「初めて見た野球が楽しくて仕方なかった」。
監督にも勧められて入団を決意した。『よびぐん 4』。
手書きの背番号が付いたユニホームが、鶴の原点でもある。
プロ初勝利こそ逃したが、693日ぶりの先発登板は、
無限に秘める可能性を予感させた。
「何より勝利に貢献できてよかったです。
またチャンスをもらえたら、中継ぎでもどこでも投げます」
と鶴。苦しみ抜いた分だけ、笑顔は光り輝いていた。
それから2年。不調の安藤に代わって、
4月27日に1軍登録されると、2度の中継ぎ登板で好投。
5日の試合後、この日の先発を言い渡された。
真弓監督は「見事なピッチングをしてくれた。
これからも先発の中に入ってくると思う」と合格点を与えた。
「1アウト取れたことが進歩。そこからのスタートです」。
無限大からスタートした通算防御率は6・00になった。
大きな自信を得た23歳。若き躍動を何度でも虎ファンに見せつける。