ぶち破れ!おれがヤル ! 虎 想い 2019

昨年よりも
偏った選手起用に
来年は期待は持てないかも
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ええやん!!どら2フジハラ 12K完封

2009.11.02 Monday

すぽにちから
◆ 明治神宮野球大会関西地区代表決定戦・龍谷大戦に先発 ◆

阪神からドラフト2位指名された立命大の藤原正典投手(22)が1日、
明治神宮野球大会関西地区代表決定戦(南港中央)の龍谷大戦に先発。
この日の最速は142キロながら、スカウト5人が見守る中、
4者連続を含む12奪三振の完封勝利を飾った。
強い雨が降りつける悪条件で見せた炎の奪三振ショー。
ドラ2左腕が、いきなりその能力の高さを見せつけた。

 ▼立命大・藤原 雨だったので、逆に力が抜けて良いリズムで投げることができた。きょうはストレートのキレが良かった。(今季一番?)そうですね。(直球で10三振を奪い)これまでピンチでは変化球を使ってたけど、ストレートで空振りを取れた。自信になった。まだ立命の選手なので、とにかく勝つことを考えて投げたい。4回生最後。神宮に出たい。今年は自分の力で(神宮に)行って立命を全国にアピールしたい。

 ▼阪神・佐野西日本統括スカウト 雨でマウンドがゆるい中、
これだけコントロール良く投げるんだから。
(能見のよう?)変則的なフォームだから違うけど、
先発、中継ぎと十分力を発揮できる。

タイプとしたら、ソフバン・和田毅らしい
テイクバックが小さくて、隠れた状態で左腕が出てくる

ルーキーイヤーで
二桁勝利、新人王を争う選手が
出てきてほしいものです!
しばらく、虎の新人投手の10勝↑は記憶にないぐらい出ていない

確か?今や面影もない福原が
中継ぎで運良く、二桁あげたぐらいかな。。。
先発では藪さんが9勝、上園が8勝で新人王だったでしょうか
暗黒時代の藪さんの9勝は二桁以上の価値はあるでしょうけれど

あの時代は、まあ打線の援護がなかった
そのうち、持ちこたえられなく「ぷっつん」
藪病という言葉もできたしょんぼり

この前KTV深夜「サタウマ」に出演
織田裕二似は顕在でした!?


藪恵壹(2008年)
基本情報
国籍 日本
出身地 三重県南牟婁郡御浜町
生年月日 1968年9月28日(41歳)
身長
体重 6' 1" =約185.4cm
200 lb =約90.7kg
選手情報
投球・打席 右投右打
守備位置 投手
プロ入り 1993年 ドラフト1位
初出場 NPB / 1994年4月13日
MLB / 2005年4月9日
経歴(括弧内は在籍年)
和歌山県立新宮高等学校
東京経済大学
朝日生命
阪神タイガース (1994 - 2004)
オークランド・アスレチックス (2005)
ティファナ・ポトロス (2006)
サンフランシスコ・ジャイアンツ (2008)

プロ入り前
高校時代は、同じ県内に杉浦正則がいたこともあり、注目されなかった。
一年間の浪人生活を経て、一般入試で東京経済大学に進学、
首都大学リーグでプレーした。卒業後は朝日生命硬式野球部(現在廃部)を経て、1994年阪神タイガースにドラフト1位で入団、
背番号はエースナンバー「18」を与えられる。
このとき姓名判断で登録名を「恵市」とした。

プロ入り後
ルーキーイヤーの1994年に9勝(9敗)を挙げ、新人王を獲得。
ファン投票でオールスターゲームにも出場した。弱かったチームで孤軍奮闘していたため負け数も多いが、1996年〜1998年は3年連続2桁勝利。
1990年代後半の低迷時代に阪神のエースとして活躍した。

阪神時代の象徴的な記録として、どんなに前半好投していても、
6回あたりからフォアボール、連打などで途端に崩れて自滅するパターンが
多く(このことをファンやマスコミの一部では「藪病」、ネット上では「SYBS」(Suddenly Yabu Burning Syndrome、突発性藪炎上症候群)とも
呼ばれている)、ファンや評論家の間では「勝負弱いピッチャー」と
イメージされていた。春先は非常に調子がよくても、
夏場に崩れて負けが先行することも多かった。

三浦大輔、桑田真澄、黒田博樹らと同様に好投しても援護点に
恵まれない選手として挙げられる。
入団1年目から7年連続で規定投球回に到達。

2001年は右肩のケガで未勝利に終わるものの、2002年、星野仙一監督の就任とともに再開花。読売テレビの番組「週刊トラトラタイガース」の生放送中、阪神タイガースOB川藤幸三との電話会談で背番号4を薦められ、
以来ピッチャーとしては珍しい背番号「4」(阪神では過去にジーン・バッキー、マット・キーオ、ライアン・ボーグルソン(現オリックス)が
付けていた)に変更し10勝を挙げた。
2003年も怪我がありながらも8勝(3敗)を挙げ、
優勝に貢献した。だが、同年の日本シリーズは登板機会皆無。

2004年オフ、メジャー挑戦を理由にFA宣言。
2005年1月、オークランド・アスレチックスへの入団が決定。
アスレチックスでの背番号は、自身が野球を始めて最初にもらった13。

メジャー1年目で4勝を挙げたが、同年オフにチームがオプションを
行使しなかったため自由契約となる。

2006年は、コロラド・ロッキーズでプレーすることになったが、同3月31日付で退団しフリーエージェントとなった。同6月29日にマイナーリーグ3Aに相当するメキシカンリーグのティファナ・ポトロスと契約した。
翌2007年は、どこの球団にも所属せず、トレーニングに費やした。

2008年、メジャー昇格を目指し、サンフランシスコ・ジャイアンツの
スプリングトレーニングから、トレーニングに励みオープン戦に登板していた。キャンプ・オープン戦での背番号は72。同年3月30日(日本時間31日)
に開幕メジャー枠に入ったことが球団から発表された。背番号は22。

4月14日のアリゾナ・ダイヤモンドバックス戦で3年ぶりの勝利を記録した。ジャイアンツで日本人が勝ち投手となるのは、1965年9月30日の村上雅則以来となった。39歳と199日での白星は、日本人メジャーリーガーの最年長記録。また同じ年の5月30日のサンディエゴ・パドレス戦の8回、3対3の同点で無死一・二塁の場面でリリーフ登板し、打者ケビン・クーズマノフを1球でトリプルプレーに仕留める、という珍しい記録も作った。

2009年、メジャー契約でキャンプに臨むもオープン戦は不調で、3月5日にマイナー降格。そしてメジャー40人枠を空けるための措置として3月20日(日本時間21日)にジャイアンツから戦力外通告を受けるも翌21日に傘下の3Aフレズノと再契約を結んだ。しかし7月12日に解雇された。


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