阪神事件史・・・掛布雅之の引退(上)
2012.09.18 Tuesday
長男の一言が背中を押した 掛布雅之の引退(上)
[阪神タイガース事件史]
パパ、もう野球をやめていいよ
当時、掛布雅之の自宅は大阪・豊中市にあった。
後年、長男の啓悟君が高校で本格的に野球を始めたとき
洋風造りに改装したが、昭和63年(1988年)
当時はまだ純日本風建築の家だった。
9月14日午後7時過ぎ、私は1階の応接間のソファに
1人座っていた。掛布はまだ帰っていない。安紀子夫人も
出かけていなかった。壁には本塁打を放つ豪快な等身大の
写真パネルが掛けられ、数々のトロフィーやバット、
グラブなどが飾られている。「今日までに何度、
この部屋に来たかなぁ」。そんなことをふと考えた。
この日、午後5時から大阪・梅田のホテル阪神「真珠の間」
で掛布雅之の引退会見が行われていた。「悔いがあれば
ユニホームを着続けます。悔いはありません」。
気丈に答えた掛布に涙はなかった。いつかこんな日が
来ると覚悟はしていたが、いざ、来てみるとやはり寂しかった。
この年の掛布は左膝(ひざ)の持病からくる腰痛で
悩まされ続けていた。昭和55年4月に負傷した左膝の半月板。
57年に35本塁打、59年には37本塁打を放ち
3度目のホームラン王に輝いた掛布だったが、無意識のうちに
膝をかばっていたのだろう、その負担が腰にかかっていた。
しかも6月14日の中日戦でイレギュラーした打球を
処理しようとした際に左膝をひねり、半月板の損傷部分を
再び痛め、膝痛と腰痛の2つを抱えてのプレーとなった。
[阪神タイガース事件史]
パパ、もう野球をやめていいよ
当時、掛布雅之の自宅は大阪・豊中市にあった。
後年、長男の啓悟君が高校で本格的に野球を始めたとき
洋風造りに改装したが、昭和63年(1988年)
当時はまだ純日本風建築の家だった。
9月14日午後7時過ぎ、私は1階の応接間のソファに
1人座っていた。掛布はまだ帰っていない。安紀子夫人も
出かけていなかった。壁には本塁打を放つ豪快な等身大の
写真パネルが掛けられ、数々のトロフィーやバット、
グラブなどが飾られている。「今日までに何度、
この部屋に来たかなぁ」。そんなことをふと考えた。
この日、午後5時から大阪・梅田のホテル阪神「真珠の間」
で掛布雅之の引退会見が行われていた。「悔いがあれば
ユニホームを着続けます。悔いはありません」。
気丈に答えた掛布に涙はなかった。いつかこんな日が
来ると覚悟はしていたが、いざ、来てみるとやはり寂しかった。
この年の掛布は左膝(ひざ)の持病からくる腰痛で
悩まされ続けていた。昭和55年4月に負傷した左膝の半月板。
57年に35本塁打、59年には37本塁打を放ち
3度目のホームラン王に輝いた掛布だったが、無意識のうちに
膝をかばっていたのだろう、その負担が腰にかかっていた。
しかも6月14日の中日戦でイレギュラーした打球を
処理しようとした際に左膝をひねり、半月板の損傷部分を
再び痛め、膝痛と腰痛の2つを抱えてのプレーとなった。