ぶち破れ!おれがヤル ! 虎 想い 2019

昨年よりも
偏った選手起用に
来年は期待は持てないかも
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西武江草『まだやれると思っている』

2011.05.27 Friday

阪神からトレードで西武に移籍した江草仁貴投手(30)が
27日、埼玉県所沢市の球団事務所で入団記者会見し
「まだやれると思っているので、ライオンズで頑張りたい」
と抱負を述べた。背番号は14に決まった。
西武は左の中継ぎが不足している。
「今までやってきたことを出せばやっていける」
と自信を口にした。

すぽにち

左腕不足の西武では働く場面も多いかと思います
昨年、ロッテから移籍の川崎に
中継ぎの出番を奪われる形で
2軍に追いやられた感じがしてしょうがない
首脳陣の評価が低すぎるのか?
力が衰えたのかは少し疑問に思うこともあるが
阪神の現状を見ても
中継ぎできる左腕の数は少なく
貴重であるとはいえるでしょう
のに放出はどうかしてる
といいきってもいい怒りマーク

経歴 [編集]
1980年に広島県福山市で生まれる。盈進高等学校から
一般入試で専修大学に進学。3年時までは登板機会に
恵まれなかったが、4年春の東都大学野球連盟2部リーグで
5勝0敗の成績を残してMVPを獲得し、1部昇格の原動力となった。
2部リーグ通算5勝0敗、1部リーグ通算1勝3敗。

2002年のドラフト会議において自由枠で阪神タイガースに入団。

2003年9月21日の対読売ジャイアンツ戦でプロ初登板。
2004年はプロ初先発も経験し、9試合と少ない登板数ながら
防御率2.76を記録。

2005年シーズン当初は敗戦処理要員だったがツーシームを
武器に頭角を現し、ロングリリーフもできる貴重な中継ぎ左腕
としてフル回転、チームのリーグ優勝に貢献した。
5月6日の対北海道日本ハムファイターズ戦で3番手として
登板してプロ初勝利を挙げた際には、「僕でいいんですかね」
とコメントしている。同年は同僚のジェフ・ウィリアムスによって、
桟原将司・橋本健太郎の2人と併せてSHEと命名された。
しかし同年の日本シリーズでは第2戦の8回にベニー・アグバヤニに
対して、シリーズ1試合最多記録、シリーズ1イニング最多記録
となる1打席3暴投を記録するなど活躍できなかった。

2006年より先発投手に転向。神宮球場での開幕カードの
3戦目を託された4月2日(日曜日)には、8回終了時点で9対0の圧勝。
99球を投じて4被安打という完封ペースだったが、
WBCへ参戦しながら無登板で調整の遅れていた抑えの久保田智之
に調整登板させたい首脳陣の意向もあって、8回限りで降板した。
同月3度目の先発となった16日の対広島東洋カープ戦では
初完封の機会が巡ってきたものの、9回表に力尽きて2失点。
しかも開幕カードとは打って変わって、相手先発の黒田博樹から
1点を奪うのが精一杯という味方打線の援護にも恵まれなかったため、
当シーズン唯一の完投ながら敗戦投手となっている。なお、
先発投手を6人でまかなうチーム事情もあって日曜日の試合に
登板することが多く、「サンデー江草」と呼ばれた。
また捕手との相性の関係で、主に浅井良とバッテリーを組んでいた。
4月こそ5登板で3勝を挙げる好調さを示していたが、5月以降の
登板では5回辺りで降板するような投球内容。5月27日の5勝目を
最後に勝ち星から遠ざかった。6月下旬に久保田が右手骨折により
離脱したことに伴い、シーズン途中に中継ぎに再転向した。
しかし再転向後でも精彩を欠き[1]、登板機会が減った。
同年12月1日に婚姻届けを提出。

2007年は同じ左腕の井川慶が移籍退団したこともあり
先発でスタートする予定だったが、最初の先発登板となる
はずだった試合が雨で流れ、以降中継ぎでの登板になった。
シーズン当初からビハインド時、同点時、リード時問、
JFKへのつなぎ役などとして登板し、50試合に登板して5勝0敗、
防御率1.95を記録した。しかし、同年オフの契約更改では
推定700万円(約27%)のアップを提示され保留、マスコミに対し
「3年間頑張ったら上がると聞いていて、今年が3年目。
もうちょっと評価して欲しい」「誰とは言わないが野手で
ポンと上がっている選手がいる」とコメントするなど、
リリーフ投手に対する球団の査定方法に疑問を呈した[2]。
最終的には3度目の交渉で合意。

また、同年まではコンタクトレンズを着用してプレーしていたが
レーシック手術を受けて視力が回復した。両目共に視力が0.01から
1.5になり、「花粉症でコンタクトレンズを付けているのに違和感が
あったけど、その心配がなくなった」「キャンプ中に涙目で
投球練習を行う心配もなくなり、来年からに関しては心配ない」
と語っている[3]。

2008年は前年に続き、中継ぎで2年連続50試合以上登板し、
安定した成績を残した。

2009年3月22日、広島市民球場の最後のプロ野球試合と
なったオープン戦で9回裏にリリーフ登板し、同球場のマウンドに
最後に立った投手となった。同年は同じ中継ぎ左腕の
ウィリアムスが故障で離脱する中、62試合に登板。
6月26日の対横浜ベイスターズ戦では6者連続三振の快投を
演じる[4]など、シーズン中盤までは安定した成績を残す。
ところが、8月27日の対横浜ベイスターズ戦では2死満塁の場面で
登板しながら、押し出しとなる2四球・1死球を記録[5]。
翌9月3日には、対東京ヤクルトスワローズ戦で2点を追う
8回表の1イニングを託されるも、1被安打を挟む3四球の押し出しで
1失点[6]するなど、夏場以降は制球難から四死球や痛打を受ける
場面が増えた。

2010年は球威の衰えと制球難で活躍できず、1軍と2軍を往復する
苦しいシーズンとなった。1軍での登板試合は21試合にとどまり、
防御率も5.12の成績に終わる。

2011年5月25日、黒瀬春樹との交換トレードで
埼玉西武ライオンズへ移籍。


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